『鬼滅の刃』の、ここがおもしろい! 【レビュー・オススメ紹介】

アニメ
【出典】アニメ『鬼滅の刃』第4話 ©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

 

『鬼滅の刃』16巻まで読んでの考察

※筆者個人の考えに過ぎませんので、参考程度にお読み下さい。

 

「いつも血の匂いがする」と語る炭治郎の過去は?

1話にて、家族が鬼に襲われる前の炭治郎は、こう語っていた。

幸せが壊れる時にはいつも 血の匂いがする

【出典】『鬼滅の刃』第1巻 ©吾峠呼世晴/集英社

 

このフレーズは、二度繰り返される。

しかしどうも引っかかる。

こんな言葉は、過去にその経験が無ければ出てこない

つまり炭治郎は過去に一度は、「幸せが壊れた時」があったし、

そのときに「血の匂いが伴っていたということだ。

 

家族を大切にする炭治郎の「幸せが壊れる時」とは、

やはり「家族を失うとき」だったのだろう。

 

最初読んだ時は、

父親が悲惨な死に方をしたのを経験しているのか?

と解釈していたのだが、

後に、炭治郎の父は、体が弱く、病死していたことが明らかになる。

 

病床の間も、家族は幸せそうではあったし、

病気になった原因も、病死そのものも、

血の匂いがする」と言わしめるほど、酷いことが起きていない様子

【出典】『鬼滅の刃』第5巻 ©吾峠呼世晴/集英社

あとは、炭治郎は、昔は祖母とも暮らしていたようだ。

うちの婆ちゃんも死ぬ前に同じこと言ってたな……

【出典】『鬼滅の刃』第1巻 ©吾峠呼世晴/集英社

 

「同じこと」とは、「夜は鬼が出る」という話のことだ。

お婆ちゃんが亡くなるときに、何かあったのだろうか。

 

まあ1話からそんな伏線張るとも思えないので、ただの考えすぎだろうが…。

 

 

善逸、伊之助の成長の描写が少なすぎる?

最もわかりやすいのが、6巻で胡蝶の屋敷で療養しつつ、

修行をしていた場面だ。

ここで炭治郎は、「全集中・常中」という技を会得するわけだが、

そこに至るまでの過程は、一話分みっちり描かれていた

対して、

善逸伊之助は、約2ページくらいに省略され描かれていた。

【出典】『鬼滅の刃』第6巻 ©吾峠呼世晴/集英社

蜘蛛に負けて落ち込んでいた伊之助なんだったのか…。

師匠との回想を思い出して危機を切り抜けた善逸なんだったのか…。

この二人も炭治郎と共に成長をしているのだろうが、

その描写がいまいち薄い

背景には色々あるようなので、今後じっくり語られることがあるのかもしれないが。

それにしては、もう16巻なので、遅すぎる気はする…。

 

 

鬼舞辻無惨を倒せたとしたら、その次は…?

16巻から、

鬼舞辻無惨とその配下の上限の月が、鬼殺隊の本拠地に攻め込み、

両軍が激突している。

 

総力戦

これはこのままどちらか、あるいはどちらも壊滅する可能性が高い。

【出典】『鬼滅の刃』第16巻 ©吾峠呼世晴/集英社

 

少年漫画的には、鬼舞辻無惨を辛くも倒す、というところまでいってくれそうではある。

 

だがその次はどうなるだろう?

これでハッピーエンドになるとは思えない。

盛り上がりに盛り上がっている作品を、ジャンプが終わらせるわけがない。

 

無惨の狙い

そもそも、なぜ無惨は冒頭で、ど田舎の山奥の炭焼の家を襲ったのか。

無惨は、炭治郎の耳飾りに、ひどく執着している。

柱でもなんでもない炭治郎を殺そうと躍起になる。

 

これは、戦国の時代に、無惨をあと一歩のところまで追い詰めたのが、

始まりの呼吸の剣士たち

ということに起因しているようだ。

これは15巻で詳しく語られている。

【出典】『鬼滅の刃』第15巻 ©吾峠呼世晴/集英社

この剣士たちには、鬼の紋様のような痣があり、

また一名だけかもしれないが、日の出を表す耳飾りをしていた。

そして、今の時代でこれに当てはまるのが、炭治郎だった

炭治郎の家系は、始まりの呼吸の剣士と深い繋がりがありそうだ。

 

ということは、冒頭の無惨は、

自分を再び脅かしかねない存在を根絶やしにしようとしたと考えられる。

であれば、なぜ禰豆子だけは息の根を止めず、

それどころか血を分け与えた状態で残したのか。

他にも家族がいることを察して、発信機代わりに泳がせようとしたのか?

だとしたら、翌日の夜に無惨が現れないのはおかしい。

(あの時点で、禰豆子が無惨の血の束縛を解いていたのなら、話は別だが。)

 

無惨が自分と同類の鬼を増やしていたのは、

太陽を克服する」という目標を達成させるためだった。

ということは、

禰豆子に血を分け与えたのは、

始まりの呼吸の剣士の血を継ぐ者なら、

太陽を克服できる体質を発現させるかもしれない

という展望が、無惨にはあったからではないだろうか。

 

実際、禰豆子は太陽を克服した初めての鬼となった。

悲願が目の前となり、無惨は大声をあげていた。

あの娘(禰豆子)を喰って取り込めば 私も太陽を克服できる

【出典】『鬼滅の刃』第15巻 ©吾峠呼世晴/集英社

 

無惨の行動は全て、太陽克服、その一点だけのためだった。

だとしたら、この後はどうなる?

 

決着の果ては…?

無惨が禰豆子を取り込むか、

鬼殺隊がそれを阻止して無惨を倒すか。

 

決着は、このどちらかなのだろうか?

 

ここで物語は大きく転換するかもしれない。

大どんでん返しが来るとすれば、決着はこのどちらでもない

 

例えば、禰豆子が無惨をやむなく取り込んでしまったり…! とか。

これがどんな結果を生むのかはわからないが、

鬼舞辻無惨の血を多く受け継いだ禰豆子が、

これまで連れ添ってきた炭治郎と敵対することになったとしたら…!

物語はさらに過熱していく。

もしそうなっても炭治郎は、禰豆子を救うことを諦めないだろう。

無惨の呪縛は解けてるはずだし、これはないかな?

 

「鬼滅」という言葉

鬼殺隊」、「鬼殺の剣士」という言葉はよく出てくるが、

タイトルにある「鬼滅」という言葉は、頑なに出てこない。

鬼殺隊の隊服の背面や、炭治郎の刀に、「」という言葉は出てくるのだが。

 

無惨との激闘の末、鬼殺隊を立て直して、「鬼滅隊」と改名でもするのだろうか。

こんな名前になったのだとしたら、

「鬼は誰だろうと絶対許さん!」という風潮がさらに激化していくのかも。

禰豆子を救いたい炭治郎には、肩身が狭い…。

 

 

おまけ

以上、そんな拙い考察・予想の数々でした。

17巻以降で、軽々と吹き飛ばされそうなものである。

 

全然関係ないけど、

いつも気丈なのに、炭治郎の意識が戻ったときに

「ウオオォン!!」って泣いちゃうアオイちゃん、いいですよね。

【出典】『鬼滅の刃』第12巻 ©吾峠呼世晴/集英社

 

『鬼滅の刃』、今後も楽しみです。

 

 

 

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コメント

  1. 匿名 より:

    主人公の魅力とかはピカイチに素晴らしいと思います。
    劇場版の煉獄さんも同様です。
    だけど、”鬼殺隊”という組織としてみたらどうでしょうか!?
    私は鬼殺隊の特に親方様が馬鹿にしか見えなくてしょうがありません。
    ハッキリ言って司令官としては失格です。
    理由はいくつかあります。
    ・諜報能力が悪い。那田蜘蛛山に十二鬼月がいることを探れず、平隊士を派遣しほぼ全滅。
    ・戦術論的にやってはいけないとされる戦力の逐次投入を行っている。
    太平洋戦争のガダルカナルの戦いがそれにあたります。平隊士に被害が出た後に、最上位である”柱”2名を覇権。普通は柱を司令官として部隊を組織して被害を最小限に作戦を遂行するものと思うのですが。
    親方様が隊士を「私のカワイイ子供達・・・」と言っているが、本当に可愛いのであれば、こんなミスをするかと疑問に思ってしまいます。
    劇場版も同様で、煉獄さんが結果的に十二鬼月相手に2連戦しており疲弊したところをトドメを刺されております。十二鬼月相手のオペレーションであるならば、上弦のことも加味してあと最低でも柱を2名ほど後詰めに投入すべきだと考えるがどうですか?スポーツの試合ではないでしょ!、殺し合いをしているわけでしょ!理解に苦しみます。仮に柱を多く動員すれば上弦は出てこないという意見もあると思うのですが、柱が上弦を上回る潜みを会得してなければ、いずれも勝てずに各個撃破の餌食になるだけですよと言いたいです。
    ・連絡、報告、相談、命令伝達がなっていない。
    禰󠄀豆子の件で、お頭と柱達が集まり竈門炭治郎を問い詰めるシーンがありましたが、元柱と現柱である冨岡義勇が親方に上申していて、親方が他の柱に下達すれば済むことで、わざわざ炭治郎を魔女裁判(例え)をする必要がないと考えるのですが如何ですか?
    あえてジャンプ編集部担当者と原作者が、そのように意図的に制作したかもしれませんが、読者の方々がその辺を気付かずに、流行だからと迎合していますと、歴史は繰り返すと申しますが、ガダルカナルの戦いのような悲惨な失敗をすることになるかもと懸念しております。

    • ugug より:

      思い入れが深く、色々と問題が見えてきてしまっているようですね。

      そうですね。部隊として後手後手に回っているのは、慢性的な人手不足、というせいがあるのかもしれませんね。
      鬼は鬼になった瞬間、一般人ではとても敵わない力を急激に手にできますが、
      鬼殺隊の隊員たちは、血の滲む修行を乗り越えて、それでも強くなれるのは一握り。
      この仕組み上、戦略が後手に回るのも、致し方ないのかな、とも思います。
      大正時代が舞台ですしね。情報網なんて脆弱です。

      最後の、禰豆子の件のゴタゴタですが、これは「わざと」そうしたように思います。
      「禰豆子は鬼だけど不問」という伝達だけでは、到底受け入れてくれない連中ばかりだと、
      わかっていたのでしょう。実際そのようでしたし。
      あそこで、「禰豆子が血を見ても我慢した」という事実を目の当たりにすることに、意味があったのでしょう。

      まあ、私は制作になにも関わっているはずもないので、真相は知りませんが。
      この漫画を読んで、「この仕事には、人員を逐次投入しよう」と思う人はいないと思います。
      社会全般、今も昔も、問題には後手に対応してしまうのが常であり、歯がゆいところなのです。

      しかし、これを読んだあなたがそう感じたなら、それは大事にすべきことですし、
      今後生きていく上での反面教師としてゆけば、良いのではないかと思います。